10周年で スピーチする シンシアマウン 女医 と田辺様
23年前に亡命し、軍事政権との闘いを続ける医師
シンシア・マウン。ドクター・シンシアとも呼ばれる。彼女はビルマ(ミャンマー)で最も有名な医師だ。しかし、彼女が故郷で過ごせたのは20年あまり。それだけの年月しか許されなかったのだ。彼女は、軍事政権に追われた政治難民だ。
ビルマ国境に接するタイのメーソットで、彼女は毎年15万人の患者を治療する。
彼女は難民キャンプに暮らすビルマ人のみならず、パラセタモール(訳注:鎮痛剤)、出産、白内障の治療のため、死や逮捕の危険をかえりみず国境を越えてタイへやって来るビルマ人の治療も行っている。
彼女の病院メータオ・クリニックにテレビはない。食料を運ぶトロリーバスもない。抗バクテリア液体石鹸の瓶もない。あるのは、ビルマ人男性が好んで口に含むビンロウジを入れるための痰壺。ラミネートで覆われた花柄のマット付の木製ベッド。コンクリートの中庭をさまよう野良犬。
すべてはぼろぼろの納屋から始まった。今日では、糖尿病、PTSD、癌、癲癇の治療まで行っている。しかし、多いのは予防が簡単なはずのマラリアや下痢だとドクター・シンシアは言う。
「ビルマ政府が欲しているのは権力です。人々の健康は気にしていません。人々は自分では治療ができない病気になっていきます。」
ドクター・シンシアは国家予算の40%が軍事費に割かれているのに、医療費には3%しか使われていないと指摘する。
ビルマ政府は、昔から、ドクター・シンシアを反政府主義者、テロリストと呼んできた。しかし、皮肉なことに、彼女の患者にはビルマ政府軍の軍人や政府の役人もいる。
ここにいるすべての人は軍事政権の被害者のようだ。政府軍と少数民族軍の何十年にもわたる戦闘は続いている。
「故郷には病院がありません。ジャングルの中の反政府軍の土地です。」
こう語るカレン人の米農家は治療を待っている。彼は地雷を踏んで、義足を求めている。
「ドクター・シンシアしか頼る人はいません。」
少数民族カレン人であるドクター・シンシアは、1988年、徒歩で10昼夜をかけてビルマを脱出した。28歳のときだ。医療機器でいっぱいのショルダーバッグを持っていた。聴診器、体温計、ピンセットが入っていた。当初、国境には3ヶ月とどまるつもりだった。そこには、数千人の88世代の反政府主義者がおり、「闘いを続けることが可能だった」。
「もう23年になります。」
ドクター・シンシアは肩をすくめて言う。しかし、闘争は続いている。
当初、ドクター・シンシアは炊飯器で器具を殺菌していた。今や、クリニックは支援を受け、年間予算は1億バーツとなり、医師、看護士、ボランティアは700人近い。
ドクター・シンシアの教えを受けた多くの医師がメータオクリニックを去り、ビルマ国内で活動している。「バックパック医療団」は深いジャングルの中を進み、不便な場所に住む多くの人々を助けている。
ビルマ政府はドクター・シンシアの動きを止めようとあの手この手を尽くしてきた。ドクター・シンシアが育てた医師を殺害したり、逮捕したりした。野外病院も焼き払った。それでも、ドクター・シンシアは資金を集め、タイ国境で暮らす人のための学校、孤児院、安全な家を建ててきた。しかし、彼女のこうした活動はタイでは違法なのだ。
タイ政府は最近、国境の難民キャンプを閉鎖し、難民を川向うのビルマへ送還すると警告している。ドクター・シンシアには国籍がなく、この絶望的な状況にははっきりした終わりが見えない。
それでも、51歳のドクター・シンシアは希望を抱いている。
「永遠に存続するキャンプというものはないのです。」
「多くの人々が国境地帯で、教育、医療、政策立案活動をしてくれています。彼らの助けがあってビルマの未来が創られるのです。」
【拙訳】
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